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旅におぼれて~東欧・中欧点描(完)交通博物館 [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描(完)交通博物館


 中欧・東欧圏では、「トラム」と呼ばれる軌道系交通機関が市民の大きな足だった。いずれも2両から3両連結で、スタイルはほぼ共通。しかし、それぞれにどこかが違っていた。それがお国柄というものだろう。ブラチスラヴァでは、トロリーバスを見かけた。幼いころ「乗り物図鑑」などでしかお目にかからなかった代物である。「あっ、トロリーバスだ」と思わず言ってしまったが、地元の人は何の関心も示さなかった。それもそうだ。きっとこれが日常的な風景なのだから。そういえば、ブダペスト市内では2両連結のバスを見かけた。これってどんなメリットがあるのだろう。???だった。

 

 

 ご存じの方は多いのだろうが、ドイツの交通チケットは時間制だった。自動販売機で時間枠(2時間、6時間、1日)と、A、B、Cに分けられたゾーンを指定すると料金が示されるので払い込むと切符が出てくる。それを隣接する「タイムレコーダー」に差し込むと時刻が刻印されるという仕組みだ。そのかわり、改札はない(車内検札はある)。下車すると出口まで何もないので、我々の感覚からすると拍子抜けする。プラハもほぼ同じ仕組みだった。

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ブラチスラヴァ

 
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ブラチスラヴァのトロリーバス

 
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ウイーン

 
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ウイーン

 
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クラクフ

 
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プラハ

 
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ブダペスト市内で見かけた2両連結バス

 
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ドイツ地下鉄の切符販売機。左がタイムレコーダー


旅におぼれて~東欧・中欧点描⑦プラハ 古都の哀しみ [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描⑦プラハ 古都の哀しみ


 プラハの旧市街地で、いいものを見つけた。アンナ・クロミイのブロンズ像である。プラハのエステート劇場の前にある。空っぽの外套を形作ることで人物の存在感を出す。見ているとひきつけられるものがある。説明板には、モーツァルトが1787年、この劇場で「ドン・ジョヴァンニ」を初演したとあった。モーツァルトは生涯に4度プラハを訪れ、演目の中には交響曲「プラハ」もある。

 こんなものが、さりげなくあるのだ。

 そこからしばらく歩いてヴァーツラフ広場に向かった。「プラハの春」でソ連の戦車が広場を埋め尽くし、市民を威圧した現場だ。しかし、いまはただ、だだっ広い空間があるだけだ。そこから横道に入った。ヨーロッパの有名ブランドが軒を接して並んでいた。確実に、歴史の歯車は回っている。

 天文時計のある塔の上は有料だが登れると聞いて、引き返した。入口は少し離れたところにあってやや分かりにくいが、なんとかエレベーターに乗り込んだ。360度、プラハの古都の風情が楽しめる。かなりの時間をそこで過ごした。気がつけば、夕闇が迫っていた。

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アンナ・クロミイの「騎士長」

 
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ヴァーツラフ広場。「プラハの春」ではソ連の戦車が並んだ

 
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天文時計の塔から、プラハの旧市街地
 
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天文時計の塔から、プラハの旧市街地
 
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 天文時計の塔から、プラハの旧市街地
 
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 天文時計の塔から、プラハの旧市街地
 
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夕暮れ時のプラハ


旅におぼれて~東欧・中欧点描⑥プラハ カレル橋から [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描⑥プラハ カレル橋から


 プラハ城からプラハ旧市街地の広場に向かうには、カレル橋を通る。カレル4世の命で1357年に着工、60年かかって完成した。緩いS字の橋で、見事な像が橋の両側に建つ。それらの像の向こうにプラハ城と聖ヴィート大聖堂の尖塔が、とてもいい具合に借景になっている。歩行者専用橋だ。

 凍りつくような橋を歩いていくと、フランシスコ・ザビエルの像があった。ザビエルはともかく、その下にいる東洋人は、日本人のつもりらしいがとても日本人に見えない。そういえば、このツアーではあちこちで「チャイニーズ?」と言われてしまった。東洋人はみな同じに見えるんだろうな。特に最近は、ジャパニーズよりチャイニーズの方が存在感があるし…。

 旧市街地の門となる橋塔をくぐり、マリオネット劇場の横を過ぎると、天文時計のある旧市街地広場である。ここでは彫像を演じる大道芸の人たちがあちこちにいる。そのうちの一人がこちらを向いてやけに愛想がいい。ついカメラを向けシャッターを押してしまった。そのまま過ぎようとすると、後ろから「ワンハンドレッド」という。そりゃそうだな、芸を売って生活の足しにしている人たちだ。タダとはいくまい。でも日本円にして500円は高くないか。で、実際いくら払ったかは秘密にしておこう。

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プラハ城を借景にしたカレル橋 

 
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旧市街地側のカレル橋の橋塔

 
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ここからカレル通りを抜けると旧市街地の広場に出る

 
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天文時計。15世紀につくられた。天動説に基づいて時を刻むらしい。正時になると死神が現れて鐘を打つ

 
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こういう大道芸の人をあちこちで見かけた。街によく似あっている


旅におぼれて~東欧・中欧点描⑤プラハ 衛兵たちの沈黙 [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描⑤プラハ 衛兵たちの沈黙


 アウシュビッツからプラハに向かう途中、ボヘミア南部のチェスキー・クルムロフに寄った。チェスキーは「チェコの」、クルムロフは「ねじれた形の川辺の草地」と言った意味である。その名の通り、ヴルダヴァ川がう回いする地に古い家並みがぎっしりと建ち、中世の雰囲気を醸し出す。ヴルダヴァ川と言われても我々にはピンとこないが、モルダウ川と言われれば、ああそうか、と思う。そして、頭の中にスメタナが流れ出す。しかしモルダウはドイツ語で、この地では絶対に使わないという。17世紀、ドイツによるボヘミア占領は血なまぐさかったにちがいない。

 プラハに着いたころには夜の帳が降りていた。翌朝、まずプラハ城に向かった。立派な門があり、それぞれに衛兵が立つ。あたりは雪景色で結構寒い。どのくらいの時間立っているのか、と尋ねたところ、1時間おきに交代という。交代式も見せてもらった。このセレモニーは、社会主義の時代にもあったのだろうか。なかっただろうな…。聞いておけばよかった。

 この城の前にはフラッチャニ広場があり、オバマ大統領がプラハ演説をしたことで知られる。カメラに収めたが、人がいなければただのだだっ広い広場である。

 城内に入ると、これぞゴシック建築という感じで大きな尖塔が建っている(後で調べてみると、10世紀に建てたときはロマネクス様式で、その後改築した)。聖ヴィート大聖堂である。高さ96㍍、奥行き124㍍、幅60㍍の威容だ。この世をつくるのに、神はまず光を与えたもうた、という教えの通りキリスト教は光を大切にするが、この大聖堂もステンドグラスが見事である。

 
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チェスキー・クロムロフの家並み

 
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プラハ城の衛兵の交代式
 
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 オバマ大統領が演説したフラッチャニ広場
 
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聖ヴィート大聖堂

 
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聖ヴィート大聖堂の内部

 
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聖ヴィート大聖堂のステンドグラス

旅におぼれて~東欧・中欧点描④クラクフ 王国の旧都 [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描④クラクフ 王国の旧都


 街を歩きながら、現地のガイドさんに「A・ワイダを知っているか」と聞いてみた。すると、目を輝かせて「もちろん、知っているわよ。超有名人よ」と答えが返ってきた。ここクラクフは、ワイダの生まれた地である。

ポーランド王国が全盛期だった1416世紀には、ここが首都だった。ゴーゴリの原作で映画化されたユル・ブリンナー主演「隊長ブーリバ」(1962年、米国)の時代背景は、ちょうど16世紀の初めごろである。可憐なクリスチーネ・カウフマンが悲恋のポーランド王女を演じた(相手のコサックの若者はトニー・カーティスだった)。そんなことをつらつら思いだしたのは、ヴァヴェル城を訪れたからだった。

ドイツとソ連のはざまで一時は国そのものが地球上からなくなったこの国にしては、戦禍の跡が残っていない都市である。だから古い建物群がそのまま残る。そのうちの一つ、聖マリア教会がたたずむ街の広場では、屋台がいくつか出ていた。1.5ズロチ(約60円)でやや大きめのドーナツ状のパンを売っていた。一つ買ってみようと思ったが、あいにくユーロしか持ち合わせがない。ポーランドはまだユーロ圏に入っていないのである。売り子のおばさんに「ユーロでいいか」と聞くと「OK」という。ただし、1ユーロ2個セットでないと売らないという。このときで相場は1ユーロ140円あまり。少し高いかな、と思ったが、物は試しと買った。これがなんとも味がなく、おまけに硬くて一つ平らげるのがやっとだった。

 口直しに近くのカフェに入ったら「コーヒーはあるけど、ユーロはダメ」という。早くユーロで統一してくれないかな。

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雪のヴァヴェル城
 
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ヴァヴェル大聖堂のチャペル
 
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1.5ズロチで売られていたパン。味は見かけほどではなかった

 
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聖マリア教会がそびえる広場

 
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旧東欧圏では、今もこのような広告塔が目立つ。日本ではとっくに液晶に取って代わったが、温かさと懐かしさが漂う


旅におぼれて~東欧・中欧点描③ウイーン 帝国の黄昏 [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描③ウイーン 帝国の黄昏


 ブラスチラバから約1時間、バスが市街地に入った。これまでの、ヨーロッパの田舎町の雰囲気とは明らかに違う。はるか前方に大きな観覧車の上部が目に入った。「あれは、ひょっとして…」。尋ねてみると確かにそうだった。「あの映画に出てくる…」。あの映画とはオーソン・ウエルズの「第三の男」。そう、ここはウイーンである。

 中世以来、ウイーンは「都」であった。ハプスブルグの帝都であり、神聖ローマ帝国の首都であった。しかし、ウイーンを取り巻く情勢はいつも「動乱」であった。第2次大戦では枢軸国の側につき、ナチスドイツの支配下にあった。その前史として、貧しい画学生ヒットラーのウイーン留学があった。198911月、ベルリンの壁が崩れたときには、その前段として東ドイツ→ハンガリー→オーストリアという「大脱走」が9月にあった。ベルリンよりもプラハよりも東に位置するという地政学的な意味が、この街に歴史的な宿命を負わせているのかもしれない。しかし、歴史の荒波の中でウイーンはいつも「都」であった。

 いまも、ウイーンのメーンストリートは洗練され人であふれ、赤を基調にしたトラムが走り、ネオンが輝く。この都には永遠に黄昏など訪れないかのように。

 国立オペラ座からシュテファン寺院まで、ケルントナー通りをぶらり歩いた。夕暮れ時の雨に、ネオンがにじんだ。

 
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ケルントナー通りの突き当たりにあるシュテファン寺院。建設されたのは12世紀で、ハプスブルグ家の支配が始まる以前。ロマネスクからゴシックに作り替えられた。第2次大戦後に再建された
 
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ケルントナー通りから少し外れた横道
 
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ケルントナー通りから見た国立オペラ座。ヨーロッパ三大オペラ劇場の一つ
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国立オペラ座
 
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マリア・テレジアやマリー・アントワネットが夏の宮殿として住んだというシェーンブルン宮殿。外観はマリア・テレジア・イエローと呼ばれ、彼女の好みで統一された
 
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ヴェルブデーレ宮殿。オスマントルコを破ったプリンツ・オイゲン公の夏の離宮。シェーンブルン宮殿もそうだが、ヨーロッパの建物はシンメトリーで造られる。そのままだと息が詰まるので写真の構図には苦労する

旅におぼれて~東欧・中欧点描②ブラスチラバのユーモア [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描②ブラスチラバのユーモア


 10日間で6か国を回る日程なので、結構忙しい。この日はブダペストを出てスロバキアの首都ブラスチラバを経由、ウイーンに入った。スロバキアは、滞在半日である。

 ブラスチラバの旧市街を散策した。街を囲む城壁の門として今も残るミハエル門。14世紀にゴシック様式として建てられ、18世紀までにルネサンスやバロック様式が付け加えられた。最上部から旧市街を眺めることができるらしいが、時間がなかった。

 街を歩くと、マンホールから半身を乗り出した人物像があった。一瞬ドキリとさせられる。「どういう意図なの?」とガイドさんに訊くと「さあ。ジョークでしょ」と一言。ブラスチラバの市民のユーモアセンスに拍手である。

 小高い丘の上にあるブラスチラバ城にも寄った。真四角な形の四隅に塔が建っている。「テーブルを逆さにした形」と言われれば、そのようにも見える。ひょっとしてこれもユーモアの産物だろうか。

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正面にミハエル門。いかにもヨーロッパの田舎町といった風情
 
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マンホールから半身を乗り出す人物像。何を見ているのだろう
 
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この像もなかなかいい

 
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ブラスチラバ城。「テーブルをひっくり返した形」と言われれば、そのようにも見える

旅におぼれて~東欧・中欧点描①ブダペストの憂鬱 [旅におぼれて]

旅におぼれて~東欧・中欧点描①ブダペストの憂鬱

 

 1月中旬から下旬にかけて10日間、ヨーロッパの東側をめぐった。厳冬期というハンディはあったが、それはそれで各国の古都は味わいのある表情を見せてくれた。写真点描で、魅力の一端を紹介する。

    ◇

 関空を深夜に出て、イスタンブール経由で空路約15時間。ブダペストに着いたのは現地時間で早朝だった(時差8時間)。そのまま市内観光。王宮の丘からブダペストの街を眺める。雨にけぶっているが、古都の雰囲気は伝わる。ホテルにいったん帰った後、ドナウのナイトクルーズ。両岸の豪壮な建物がライトアップされて美しい。

 しかし、こんな建物を残しておくのはさぞ、経済的に負担であろう。それを大した使い道もなく、ライトアップして観光客に見せるだけとは…。

 昼間、王宮の丘を訪れたとき、現地のガイドさんにハンガリーの経済成長率を聞いてみた。「さあ…」と、ガイドさんは困惑した表情を見せていた(我ながら、無粋な質問をするものだ)。ライトアップした建物は、新しい顔を持つことなく佇む古都ブダペストの憂鬱な表情にも見えたのである。

 
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王宮の丘からブダペストの市街地を望む。手前はブダペストの三橋の一つ、くさり橋

 
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マーチャーシュ教会。13世紀にゴシック様式で建立され、15世紀にマーチャーシュ王が尖塔を建てた。オスマントルコの支配下ではモスクに改造されたこともある

 
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漁夫の砦からブダペスト市街地を望む
 
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 ドナウ川ナイトクルーズ。ライトアップされた国会議事堂とくさり橋

旅におぼれて~スペイン断章・番外編 はるかなる山なみ [旅におぼれて]


旅におぼれて~スペイン断章・番外編

はるかなる山なみ

 むかし好きだった映画に「戦争は終わった」(1966年フランス、アラン・レネ監督)があった。スペイン市民戦争を戦った中年活動家を演じるイヴ・モンタンがフランスからスペインへと非合法での潜入を図る。スペインはすでにフランコ政権下。疲れた表情のイヴ・モンタンが検問で引っ掛かるシーンがあり、背後にはたしかピレネー山脈があった。スペインの山といえばピレネー山脈である。ナポレオンが大軍を進めたのも、この山脈を越えてであった。


 しかし今回の旅では、ピレネーはかすりもしなかった。ひょっとするとバルセロナあたりからは見えたかもしれないが、到着日はすでに深夜で翌日は雨天だった。

 よく見えたのはシェラネバダ山脈である。アンダルシア地方、グラナダはこの山脈の懐に位置すると言っていい。スペイン最南部で最高峰はムラセン山(3478㍍)。この山名でネット検索するといくつか登山記録が出てくる。日本ではほとんどデータ収集できないこと、登山そのものはそれほど技術を要しないこと、などが分かる。ただ、比高は西ヨーロッパで3番目に高いというから登山口の標高が低いのだろう。山小屋で一泊というのが普通の日程らしい。

 アルハンブラ宮殿の中庭からも山脈は遠望できた。よく見えたピークの山名を聞いたところ、ガイドは「ベデタ山」と答えていた。帰ってネットで調べればいいか、とそれ以上聞かなかったが、この山名でヒットするデータはなかった。


 シェラネバダといえば米国西海岸に南北に走る大山脈があるが、これも「スペインのシェラネバダみたい」ということで名付けられたらしい。スペイン語で「雪をいただく白い山」。シェラネバダの本家はスペインであった。ウィキペディアで調べると同名の山脈はメキシコ、ベネズェラ、コロンビアにもある。おそらくそのどれも、スペインに由来すると思われる。

 スペインの国土はほとんどが荒地で、低山も日本とはかなり趣を異にする。雑木林がほとんどないので、ちょっと登れば360度眺望がきき、気分がいいだろうな、というのが各地にある。しかし、スペインの人はあまり山に登らないのか、ほとんどルートらしきものが見当たらなかった。それよりも、頂上近くまでオリーブを植えているのが目に付く。オリーブばかり植えてどうするんだ、というぐらいオリーブ畑である。


 スペインのみなさん、オリーブもいいけど、ハイキングコースを開拓しませんか。


≪「スペイン断章」おわり≫

 
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アルハンブラの中庭から見たシェラネバダ山脈。ピークに立てば地中海が見えるはずだ 

 
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地中海に面した町、ミハスの村と小高い丘

 
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高くはないが、眺望はよさそう

 
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軽いトレッキングに向いていそうな山

 
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ほぼ頂上までオリーブ畑


旅におぼれて~スペイン断章Ⅵコルドバ・文明は衝突する [旅におぼれて]

旅におぼれて~スペイン断章Ⅵ


 コルドバ・文明は衝突する


 どこにもないものを壊してどこにでもあるものにしてしまったのか。それとも、どこにでもあるものを寄せ集めてどこにもないものを作ったのか。

 アンダルシアの風が吹くコルドバは早くからイスラムの脅威にさらされた。盛期には北アフリカと南欧を睥睨する都市として人口100万、モスク300を数えたという。しかしレコンキスタによってキリスト教圏に奪還され、都市としては衰退する。そんな中でメスキータ(モスク)は3度の拡張と変貌を遂げる。

 冒頭の言葉、前者はカルロス5世の嘆きである。しかし今、観光資源としては後者の見方のほうがもてはやされている。

 いうまでもなく日本人は八百よろずの神であり、新年の祈願は神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教でもなんとも思わない。どんな神であろうと、神であれば抱きしめる。しかし、唯一絶対神を信じる民はそうはいかない。そんなわけで、コルドバの寺院では簒奪の歴史が続いた。それを、ぐるりと囲む分厚い壁が物語る。

 イスラムとキリスト教の建築様式が混在するこの巨大なメスキータの内部はしかし、見るからに融合というものがなくグロテスクでさえある。力を持つものの苛立ちのあとだけが刻まれている気がしてならない。

 「文明の衝突」を著したS・ハンチントンは、世界は宗教を基礎とした八つのブロックに分かれてぶつかり合うとして「911」を予言したが、その歴史的現場がここにある、といえるのかもしれない。

 
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旅におぼれて~スペイン断章Ⅴセビーリァ・赤い情熱 [旅におぼれて]

旅におぼれて~スペイン断章Ⅴ


 セビーリァ・赤い情熱
 

 人類発祥のときから、赤は神聖な色であった。赤は火の色であり、血の色であるからだ。クロマニヨンの洞窟には赤い色の壁画があったことが知られている。紀元前のアジアでは硫化水銀による赤が用いられたが、毒性があり日持ちが悪かったため衣料には使われなかった。緋色の軍団と呼ばれたローマ帝国の軍団のマントも、真正の赤ではなかったようだ。ヨーロッパが「完璧な赤」を手に入れたのは、スペインのコンキスタドール(征服者)たちが1519年、メキシコの市場でアステカ人たちが売っている染料を目にした時だったという。その染料の原料とは…。この話のタネ本はエイミー・グリーンフィールド「完璧な赤」(早川書房)である。とても面白い本です。

 このようなことからすると、「赤い情熱」というタイトルはややおかしい。人間の根源的な精神の発露である「情熱」を形容する言葉は、もともと「赤」をおいて他にないからである。

     ◇

 セビーリァでフラメンコを観た。その前夜にもグラナダでフラメンコを観た。もともとフラメンコの発祥の地はグラナダであるとされる。サクロモンテの丘の洞窟に住むロマ民族の人たちが18世紀ごろ始めたとされるが、異説もある。そんなわけでグラナダの洞窟へ、フラメンコを見に行った。その翌日、セビーリァのタブラオを訪れた。タブラオとは「板」のこと。フランス語で言う「タブロー」は二次元芸術(絵画など)を指すが、この地ではフラメンコの舞台を指す。まさしく「板一枚」の世界なのだ。そこで踊り子たちは激しく足をふみならす。

 誤解を恐れず印象を言えば、グラナダは情念が洞窟にこもる踊りであった。セビーリァではそれがやや洗練されて「ショー」になっていた。津軽三味線を下北半島で聞くか、東京・渋谷あたりのライブハウスで聞くか、といった違いのようにも思える。津軽三味線を引きあいに出したが、なぜか私の感性の中ではフラメンコは津軽三味線と共振する。しかし、少なくとも一つ違うものがある。津軽三味線に赤は似合わないが、フラメンコはこれ以上ないほど赤が似合う。だからグラナダでもセビーリァでも、光の主役は赤であった。

 リズムの裏を取る、というのであろうか。あれはとても日本人にはまねができない。調子に乗って手拍子でもやれば大けがをしそうだ。そしてそれは、情念が刻むもの、としか形容のしようがない。でも日本人は好きですね、フラメンコ。私も好きです。


【注】写真は、はじめの4枚がセビーリァ、最後の1枚がグラナダ。

【注】最後まで読んでいただいた人のために。南米で使われていた「赤」の染料の原料は砂漠のサボテンに寄生する「コチニール」というアブラムシの一種。スペインが南米で独占したものは金銀銅だけではなかったのですね。

 
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旅におぼれて~スペイン断章Ⅳグラナダ・斜光の迷宮 [旅におぼれて]

旅におぼれて~スペイン断章Ⅳ

 グラナダ・斜光の迷宮


 
鉄分を多く含む土レンガで固めた壁は、薄赤い色をしている。小高い丘に建つ城を見上げて人はアルハンブラ(赤い城)と呼んだという。

 そこを訪れたとき、すでに陽は大きく傾いていた。斜めに差す日の色が、赤い壁と渾然としていた。はるかかなたに雪をいただいたシェラ・ネバダ山脈が望める。

 この城は、外観はとても地味である。というよりそっけない。ただレンガを積み上げただけの建築物だ。しかし、内壁には精緻な絵模様が施されている。外観で威圧する一般的な西洋の城と比べると、感性は日本人向きと思える。絵模様も、きらびやかに金銀を施してあるわけでなく、細かい手作業の産物だ。このへんも日本的美意識にあう、と勝手に感じいる。

 多くは14世紀ごろに整えられたが、16世紀になってカルロス5世が、隣接地にルネサンス様式の宮殿を建てさせた。イスラムに対抗して帝国の威容を示したかったのだろうが、見るからに無粋である。これ一つとってみても、カルロス5世は暗愚の帝王であったにちがいない。

 白眉とされるライオンの庭は工事中だった。

 
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旅におぼれて~スペイン断章Ⅲトレド・歴史の中空都市 [旅におぼれて]

旅におぼれて~スペイン断章Ⅲ


 トレド・歴史の中空都市

 マドリッドから南西へ70㌔、荒野の中にそれはある。タホ川に囲まれた小高い丘は、城壁で囲めばそのまま要塞である。こうしてトレドは、ローマ時代から城塞都市だった。6世紀、西ゴート王国の首都となり、8世紀にイスラムに支配され、11世紀にはキリスト教徒によって再征服(レコンキスタ)される。1561年にスペインの首都はマドリッドに移り、トレドはスペイン・カトリックの首座大司教座として位置づけられる。


 ――カルロス四世及び王妃マリア・ルイーサの戴冠式は一七八九年一月一七日、トレドの大聖堂で行われた。王としての宣誓をうける人は代々トレドの大司教である。このとき、王は四一歳、王妃は三八歳である。(堀田善衛「ゴヤⅡ マドリード・砂漠と緑」)

 

  歴史にほんろうされた都市はしかし、その後の近代の歴史から隔絶されたかのようなたたずまいを見せる。そんな街に、一人のギリシア人が漂着する。エル・グレコ(スペイン語で「あのギリシア人」)である。かれはこの地で絵を描き続ける。サント・トメ教会で見たグレコの「オルガス伯の埋葬」は予想以上に大きな絵だったことに驚いた。

 キリスト教とイスラム教が覇を競ったこの都市では、宗教を彩るものすべてが豪奢である。宗教は力である、そのことを如実に見せつける。そして今も武装を解かないこの都市は、地形上のみならず歴史の上でも何物にも属さぬ、中空の位置にあるかのようだった。

 
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旅におぼれて~スペイン断章Ⅱバルセロナ・聖と俗のはざま [旅におぼれて]

旅におぼれて~スペイン断章Ⅱ


 バルセロナ・聖と俗のはざま

 入口付近。人ごみにまぎれて写真を撮り損ねたが、面白いものを見た。上から宙づりにされ、逆さになった立体模型である。

 バルセロナで聖家族教会を見に行った。アントニオ・ガウディ原案によるサグラダ・ファミリア。「原案による」と書いたのは、ガウディなき今も建築が進むこの建物の、確固とした設計図がないためである。「こんなもんだろう」ということで、工事は行われているらしい。

 なぜ、立体模型が興味深かったか。この、デザインコンセプトのよく分からない建物の根本思想は「反重力」にあるのではないか。宙づり、逆さの模型は、それを暗示しているように思えたのだ。

 「聖家族」とはもちろんキリストにまつわる人たちのこと。それぞれが「栄光の塔」として象徴されている。もう130年も工事しているが、建ったのは18本のうち8本。厄介なのは、キリストや聖母マリアの塔が後回しになっていること。日本人ならたぶん、難しいほうから手をつけるだろうが、この国では逆らしい。ということは、今建っている塔より、もっと高い塔を建てなければならないことになる。

 どう考えても、この外観は奇をてらった遊園地のようで、あまり好きにはなれない。しかし、内部の天井はなかなか面白い。なんだか人間の細胞を拡大したかのようなデザインだ。ともあれ、この塔は近年、スペインでもっとも観光客を集めるスポットなのだ。2010年に教皇ベネディクト16世がミサをして「権威付け」がなされたが、やっぱりそれでも俗っぽい。

 帰りがけに通ったバルセロナの小路の方がよほど味わい深い雰囲気を醸していた。

【注】18本の内訳は、キリスト、聖母マリア、12使徒と4人の福音記者。

 
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旅におぼれて~スペイン断章Ⅰラ・マンチャの雪 [旅におぼれて]

旅におぼれて~スペイン断章Ⅰ


 

 ラ・マンチャの雪

 バレンシアからバスに乗った。赤い大地が広がる。内陸に入るに従って、大地は白く染まりはじめた。雪である。つまらぬ固定観念のために予想していなかった景色が、現れる。

 古い世界地図を広げて、納得する。マドリッドは北緯40度線の北。日本でこの緯度は、岩手から青森にあたる。

 そういえば前日、3月下旬のバルセロナは春の嵐だった。夜のテレビは季節外れの雪のニュースを流していた。マドリッドは標高600㍍。あれはおそらく、首都の雪景色だったにちがいない。

 マドリッドの手前、ドン・キホーテの銅像がある田舎町のレストランで昼食を食うころ、空は真っ青に晴れ上がった。その青の色が、真っ白な壁とコントラストをなす。スペインでは、青は誠実の色だという。だからこのんで青を使う。聖母マリアの宗教画も、例外なく青の布が使われる。

 ある家の青いドアは風雪にさらされ、色が落ちかかっていた。これを味がある、とみるか。色あせた、と見るか。

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 光が強ければ影は濃い。スペインとはそんな国だった。帝国の栄光と辺境の貧困が共存する国。イスラムとキリスト教の簒奪の歴史を物語る厚い城壁。ピレネー山脈と地中海に挟まれた大地。印象をつづる。

 
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