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岩壁に求めた自己解放~山の図書館 [山の図書館・映画館]

岩壁に求めた自己解放~山の図書館

 

「アート・オブ・フリーダム」(ベルナデッド・マクドナルド著)

 

 低山逍遥に明け暮れる身にとって、ヒマラヤを舞台とした人間ドラマは文字通り雲上の人々の物語である。しかし、手が届かないからこそ純粋に楽しめる世界でもある。

 

ラインホルト・メスナーとククチカ。世界登山史上の2人のレジェンドだ。800014座を初めて登ったのはメスナー、2人目がククチカである。メスナーには自伝もあり文筆家でもあったことから一般によく知られるが、ククチカはほとんど知られていない。ポーランドの出身である。この国にはもう一人、知る人ぞ知るクライマーがいる。ヴォイテク・クルティカ。一部で熱狂的に支持される由来は、彼の登攀スタイルによる。

 クルティカの評伝ともいうべき一冊が出た。タイトルが、その登攀スタイルを表している。それは、おそらく彼の生き方のスタイルでもある。

 この本を手にした動機は大きく二つあった。一つは、豊かとはとてもいいがたい戦後を歩んだ東欧の一国で、ククチカを含めなぜこれほど強靭な登山家が輩出されたのか。二つ目、長らく社会主義国であったかの地で、先鋭的なアルパインスタイルを貫くクルティカの思想(それは個人主義の極を行くかのようだ)がどう育まれたのか。蛇足を承知でいえば、ソ連も中国も全体主義国家らしく、国家事業としての組織的な登山で知られる。それとは全く違っている。

 

 登山界の権威ある賞、ピオレドール賞の審査員になってくれないかという誘いをクルティカが固辞するところから、ストーリーは始まる。このエピソードこそ彼の生き方を表しているということだろう。世間的な称賛は時として束縛につながる。そんなものはいらない。自由でいたい。登攀の時でさえ、本当はザイルさえないほうがいい。だから、審査員になる話も生涯功労賞の話も、当然のこととして断った。

 1947年、混沌と廃墟のポーランドで生まれ、60年代後半には流れるような登攀技術で知られた。しかし、登山協会は形式的な試験と証明書を求めた。クルティカは目もくれなかったので協会の知るところとはならなかった。おかげで彼の登攀スタイルは誰にも邪魔されず、自身が求める完璧なものとなった。

 国内の山で技術を磨いた25歳のクルティカはアフガンの7000㍍峰をアルパインスタイルで登った。帰国して登山協会からの封筒を開くと、会員証が入っていた。彼はそこで初めて、これまで「違法に」山を登ってきたことに気づいた。


 その後、クルティカは世界の名だたる山に挑む。そのうち印象的な二つの山行を紹介する。

 一つはガッシャブルムⅣ峰の西壁シャイニングウォール。高低差2500㍍の輝く壁。標高8000㍍にわずかに届かないため、ほかのガッシャブルム峰ほど目立たないが、難度はガッシャブルムで一番だと言われる。84年にククチカとこの壁に挑む計画だったが、悪天候のためクルティカが断念を主張、ククチカと対立した。結局クルティカの主張が通ったが、柔軟さを欠くククチカの性格には危うさを覚えた。翌年、ロベルト・シャウアーと戻ってきたクルティカは、4日間の停滞ののち壁に取り付いた。風雨によって8日間閉じ込められ、主稜線に出た時には疲れ果てていた。2人は頂上までわずかに延びる緩い斜面には向かわず、下り始めていた。重要なのは頂上に立つことではなく、壁を美しく越えることだった。

 トランゴ・タワーはパキスタン・カラコルムにある。標高はさほどでもなく知名度も高くはない。しかし、シャフトのような黄金の岩が、クルティカの心をとらえた。まず日本隊と組んだが撤退、2回目はスイス人ロレタンと組んだ。このとき、クルティカは2度の落下を経験する。こうして14日間の登攀ののち、剣の先のような頂上に立った。


 ククチカとはマカルー西壁やガッシャブルムⅠ、Ⅱ峰、ブロードピークなどを登り、マナスル東峰を最後に同行することはなかった。2人を知る人は性格的に全く違うとみていたようだ。クルティカは、どんな条件でも撤退しないククチカを8000㍍サミットのコレクターとし、危険な雰囲気を感じていた。結果より過程を重視し、クライミングは自己解放と考えるクルティカには受け入れがたいものがあった。こうして2人は、それぞれの道を歩むことで合意した。3年後、ククチカはローツェ南壁で遭難死した。

  

 ドイツとロシアという大国に挟まれ、長い戦争、被占領、貧困を経験したポーランド。このことはこの国のアルピニストの心情に影響しているのか。デリケートなこの問題にも、少しだが触れている。クルティカは、この国の歴史がククチカの「国際舞台での過度な努力」や反動としてのプライド、忍耐力、勇気を生み出したのだと思っていた。そして、自分は決してそうはならない、勇敢さへの突出した義務感と繊細さの深刻な欠如には陥らないと思っていた、という。

 
 ダウンは手縫いで、ジッパーはなくボタン止め。そんな装備をクルティカは自虐的に「ロシア・グラーグ(収容所)の生き残りのよう」と言った。社会主義の制約と貧困の中で岩壁に描く美しいトレースにしなやかな生き様を表現したクルティカ。一方でどんな状況下でも剛直に突き進んだククチカ。ポーランドの戦後を生きた登山家2人が、ページの間から立ち上がってくる。

 

 山と渓谷社、3000円(税別)。クルティカの軌跡が分かるカラー写真付き。

 


アート・オブ・フリーダム 稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生

アート・オブ・フリーダム 稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生

  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2019/08/24
  • メディア: 単行本

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中国山地幻視行~三倉岳・梅雨の合間に [中国山地幻視行]

中国山地幻視行~三倉岳・梅雨の合間に

 

 17日、三倉岳。梅雨の合間の晴れの日。

 合目小屋あたりでヘリの音が激しくなった。見上げると、樹間から白い機体が見えた。中岳付近でホバリングしているらしい。事故の救助作業にも見えない。なんだろうと思っているうち、飛び去った。近くにはいるらしいことが、音で分かった。何かの調査か取材だろうと勝手に想像した。

 しばらく登り、あまりの蒸し暑さにうんざりして一休みしていたら、下から声がした。のぞき込むと若い2人連れのようだ。

 「まだだいぶありますかね」

 「ここで半分ぐらい。まあ合目あたりでしょう」

 「この山はよく来るんですか」

 「年に何回かは来ますね。どこから」

 「光から。この辺で面白い山があったら教えてください」

 というわけで、ひとしきり山の話。一休みが、30分になってしまった。

 のんびり山頂にたどりつくと、いつも陣取る岩の上は、先ほどの人に占領されていた。そこで北向きの岩の上で昼食にした。しばらくして、2人連れがのぞきに来た。

 「あ、それいいですね」

 何かと思えばガスコンロのことだった。ちょうどカップヌードル用の湯を沸かしているところだった。

 「ここから羅漢山がよく見えます。あの、鉄塔が立っているお椀型の山」

 あまり関心はなさそうだった。そのまま下りていった。

    ◇

 長らくパートナーだったエクストレイルに別れを告げ、来月から新車にした。その紹介は後日。



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中岳(右のピーク)のすぐ上をホバリングしていたが、カメラを向けると飛び去った

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ふう、やっと9合目

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あれが羅漢山。山頂にアンテナ塔が見える

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眼下に栗谷の集落

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はるかに広島湾の島々

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朝日岳頂上直下で遊ぶ人たち。結構度胸がいりそうな…

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この日は左手の夕陽岳を往復

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この車とももうすぐ別れ

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