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極地をトレースする豊饒な文体~山の図書館 [山の図書館・映画館]

極地をトレースする豊饒な文体~山の図書館


「アグルーカの行方」(角幡唯介著)


 世界地図を広げてみる。ヨーロッパからアジアへと向かう航路を探す。アフリカ大陸西岸を南下して喜望峰を回るか。地中海を東進して中東を通過するか。南米大陸の東を通り、マゼラン海峡を抜けるか。しかし、15世紀から17世紀にかけての大航海時代を経て、それらはスペイン、ポルトガルが押さえていた。遅れてきた大国イギリスはそこで、北極海の通過をめざす。19世紀に始まった北西航路探検である。ヨーロッパから北西を目指して、氷の海に乗り出す。しかし、その探検史を見るといずれも2~3年の期間を要している。発達途上にあった内燃機関による小さな船と、保存技術が確立されていない膨大な食糧。20世紀初頭にアムンゼンが完全航海するまで、その探検史には悲惨な事実が詰まっている。


 21世紀に入ってなお地図上の空白地帯が存在することを知らされたのは「空白の五マイル」を読んでであった。世界最大の規模と言われるチベットのツアンポー峡谷。著者の角幡唯介は20代から30代初めにかけ、この地に3度踏み込む。そして探検へと向かう中国での長い列車の旅で、角幡が手にした1冊の本は「世界最悪の旅」だった―。


 アムンゼンと、南極点初到達を争って敗れた英国ロバート・スコットの探検記だ。スコットら5人は失意の中で基地に戻る途中、極寒のブリザードにのまれて落命する。アプスレイ・チェリー=ガラードの筆になる探検文学の古典は、角幡の心に何かを植え付けたにちがいない。この時から13年後、角幡は「極地」へと向かう準備を始めている。

 北西航路探検の歴史の中でも、とりわけ悲惨だったのは1845年から48年にかけての、ジョン・フランクリンの一行であろう。氷に閉ざされ、絶望的な飢餓の中で129人全員が死亡したと伝えられる。角幡は、知人で北極探検家である荻田泰永とともに、このフランクリン隊のルートを追って103日間1600㌔を歩きとおす。
 

 ――ただ、ホールの集めた証言が、根拠が薄いと簡単に切って捨てることができるようなものではないという気もしていた。だから思ったのだ。だとしたら、行ってみるべきなのではないだろうか。
 

 ホールとは、フランクリン隊が行方不明になって15年後、なお隊のメンバーの生存を信じてイヌイットから証言を集めた探検家である。これに対して否定的な見解を示したのは、歴史学者のリチャード・サイリアクス。しかし、ホールが集めた証言の中で、次のような表現が角幡の心をとらえる。
 

 最後にアグルーカと二人の仲間は不毛地帯に向けて旅立った。
 

 彼もまた、その風景の中を旅したいと思う。アグルーカとは、イヌイットの言葉で「大股で歩く男」。背が高く、果断な性格の人物に付けられることが多い。必ずしも、特定の人物を指すものではないが、イヌイットに語り継がれるアグルーカは、果たしてフランクリンか、あるいはフランクリンの死後に隊を率いたクロージャーを指すのだろうか。ここで、一つの事実が交錯する。フランクリンが遭難したころ、時期的にも地域的にも最も近くで活動していた探検家ジョン・レーが「アグルーカとは自分のことである」と、ある新聞で発表するのである。

 フランクリン隊が体験したであろう飢餓の果てのカニバリズム、雪原の麝香牛母子と角幡、荻田の生と死のドラマ、荒涼たる風景を行く3人の男―彼らの一人はまぎれもなく「アグルーカ」と呼ばれた―の、謎に満ちた行方。「空白の五マイル」から、さらに豊饒さを増した角幡の文体が、不毛の極地をトレースする。

 

 
アグルーカ_001のコピー.jpg

 「アグルーカの行方」は集英社刊。1800円(税別)。初版第1刷は2012930日。角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)は1976年、北海道芦別市生まれ。早大政経学部卒。20022003年にチベット・ツアンポー峡谷の未踏査部を探検。朝日新聞記者を経て10年「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年に第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。次作の「雪男は向こうからやって来た」(集英社)は12年、第31回新田次郎文学賞。





 


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