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北アの黎明期を生きた歌人~山の図書館 [山の図書館・映画館]

北アの黎明期を生きた歌人~山の図書館


「山を想えば人恋し」石原きくよ著

 

 副題に「北アルプス開拓の先駆者・百瀬慎太郎の生涯」とある。慎太郎は信濃大町の老舗旅館の息子として生まれ、歌人にして登山家。しかし、彼のつくる短歌は素直そのもので、むしろ次のフレーズでよく知られている。一度は耳にしたことがあるだろう。

 山を想えば人恋し

 人を想えば山恋し

 今で言えばキャッチコピーである。


 慎太郎が旅館「対山館」の跡取りとして生まれたのは1892年、今から120年ほど前のことである。この年、日本の山を世界に紹介したウォルター・ウェストンが槍ヶ岳に登頂。翌93年には対山館に宿泊、針ノ木岳を目指している。この年にはウェストンの前穂高登頂に上條嘉門次が同行。二人の交友がその後、語り継がれる。慎太郎は、文字通り北アルプスの黎明期に生まれたといえよう。

 中学を卒業した慎太郎は、家業を継ぐ。そのころつくった歌がある。

 雪の嶺に吹きつけられし雪あまたにごりて暗き高原の街

 鬱勃とした心情が込められている。そんな彼が、人が変わったように仕事熱心になる時があったという。山を目指す人たちが宿を求めて来た時である。このころ、慎太郎は忘れられない経験をする。針ノ木峠から黒部谷を経て立山へと抜ける山行である。案内人は遠山里吉。通り名は品右衛門。針ノ木近辺に関しては嘉門次さえ一目置く存在であったという。191010月、町は秋の盛りだが、峠は初冬の荒涼とした風景だったと著者・石原は書いている。

 13年夏、槍ヶ岳から上高地に降りた21歳の慎太郎は島々の旅館でウェストンと出会う。この偶然をきっかけに、二人は親交を深める。第一次大戦が始まった14年にウェストンは対山館を訪れる。英国への帰国を決意し、日本の山々に別れを告げる旅の第一歩として針ノ木峠を訪れるためであったという。ウェストンは15年、日本を離れる。

 慎太郎は17年に大町登山案内者組合を結成する。日本で初めての山岳案内人の組合である。そろいの法被には「日本アルプス」の文字が染め抜かれた。ウェストンがヨーロッパに紹介し、登山家で文筆家の小島烏水が国内で定着させた名称である。当時の慎太郎は烏水に心酔していたようだ。案内者組合の結成も、烏水に触発されてのことである。

 そのうち、国内にスキーが普及し始めると、冬季北アルプスに関心が向き始める。23年3月、富山から針ノ木峠を越え大町に抜ける慎太郎らの山行は記録映画として撮影され、社会的なニュースになる。それにつれて冬山を目指す人たちが増え、避難小屋を求める声が、登山者たちから高まる。慎太郎が針ノ木雪渓と扇沢の間に大沢小屋の建設を決めたのもこのころである。赤字覚悟であったという。

 2712月大みそか、早大山岳部の遭難事故が起き雪崩で4人が生き埋めになった。捜索態勢づくりは進まず、対山館が捜索隊を出し捜索本部となった。遺体が見つかったのは翌年5月だった。しかし、この遭難事故で避難拠点としての大沢小屋の価値が再認識された。慎太郎の手によって雪渓の上部に針ノ木小屋ができたのは、1930年のことである。


 著者は北アルプス黎明期に深くかかわった人物として上條嘉門次、百瀬慎太郎を挙げている。おそらくこの二人の間にいるのが、日本アルプスを世界に知らしめたウォルター・ウェストンだろう。信州と越中を結ぶ要路として古くから知られてはいたが難所のゆえに越える人の少なかった針ノ木峠を、今日のように魅力的なアルペンルートにしたのは百瀬慎太郎の功績である。しかし、その足跡を追った著書はほとんどない。石原きくよのこの書は、貴重な1冊といえる。
 


山を想えば_001.JPG
 
 著者石原きくよは大町市在住、日本児童文学者協会所属。「山を想えば人恋し」は郷土出版社(松本市)刊。1600円(税別)。初版第1刷は1998年。

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コメント 2

山子路爺

針ノ木小屋は80年以上の歴史があるんですねぇ。
山の本は串田孫一のものを少し読んだくらいです。読みたいと思いつつなかなか手が出ません。

by 山子路爺 (2012-10-01 10:50) 

asa

≫山子路爺さん
そうですね。燕山荘は大正時代にできた山荘ですから、それに次ぐぐらいでしょうか。
by asa (2012-10-03 10:11) 

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