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山の図書館~「百名山の人 深田久弥伝」 [山の図書館・映画館]

 「百名山の人 深田久弥伝」(田澤拓也著)


 「その大衆はやがて峠から嶺にかけての、あたたかい陽を受けたカヤトのあちこちに群がっていた。(中略)健康な青春謳歌の風景が展開されていた。もう私の頭から文学的・歴史的懐古など跡形もなく消えて、たださわやかな生命の息吹を感じるばかりであった」(「大菩薩岳」)
 「日本百名山」に人間が登場する場面はあまりない。その数少ない一つ。一見明るく屈託ないが、実は視線はある高みにあり諦観にも似た影を感じさせる。なぜか。考えてみれば「山岳もの」を除いて、文学者深田久弥についてはほとんど何も知られていない。どんな作品を残しどんな道筋を歩いてきたのか。そんな疑問に答える1冊である。
 東大から改造社に進んだ深田は昭和3年、懸賞創作の選考にかかわる。そこで入選を逃した一篇に心奪われる。「津軽林檎」と題した四百字詰め128枚。作者は北畠美代といった。病のため青森で幽閉状態にあった24歳の女性と文通を始める。4年後に「便り」を発表。叙情的な作品群の一つ「津軽の野づら」の原型になる。


 山の図書館―百名山の人P.JPG

 「百名山の人 深田久弥伝」(TBSブリタニカ刊)



 北畠と暮らし始めて、深田の作風は一変する。川端康成や堀辰雄、小林秀雄らの「文学」編集同人となり「津軽の野づら」は激賞される。
 「けれども一般の読者や世間には、その奇妙な共同作業が知られるはずもない。(中略)深田と北畠の二人三脚はその後も続けられたのである」(「百名山の人」)
 文芸評論家中村光夫の姉志げ子と約20年ぶりに再会したのは昭和16年。1カ月後、2人は雨飾山に向かう。翌年夏、長男誕生。背信が発覚し泥沼のさなか召集令状が舞い込む。復員した深田は志げ子と暮らし始める。
 ヒラリーがエベレスト登頂を果たした昭和28年、「机上ヒマラヤ小話」を山岳雑誌に連載、単行本として刊行された。「日本百名山」は、その4年後に始まり昭和38年、50回で完結する。読売文学賞を受賞し選考委員の小林は「昔のことが思い出されなつかしい気持ちになりました」と、はがきを送る。
 田澤によれば、深田久弥は高貴でも哲学の人でもなく不実と背信の人であった。しかし、そのことが「百名山」の価値を下げるわけではない。北畠の同郷人でもあった太宰治の言葉を借りれば「マイナスを集めてプラスにする」ことを引き受けた作品だったといえる。 

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