中国山地幻視行~曽場ケ城山・戦国期に思いをはせ [中国山地幻視行]
中国山地幻視行~曽場ケ城山・戦国期に思いをはせ
時は、応仁の乱(1467~1477年)のころにさかのぼる。安芸の国も騒乱の中にあった。出雲から尼子が、周防から大内が勢力を伸ばし、覇を競った。当時、弱小勢力だった毛利元就は尼子についた。こうして尼子・毛利と大内が激突したのが鏡山城の戦い(1523年)である。元就はこのとき、謀略をめぐらして鏡山城を守る大内方に内部分裂を起こさせ、尼子に勝利を呼び寄せた。しかし、戦を終えて尼子は元就の知略を警戒、十分な報いをすることがなかった。このため、大内が反攻に転じると、元就は尼子を離れ大内についた。「仁義なき戦い」は、500年も前からあったのだ。
このとき大内が反転の拠点として築いたのが曽場ケ城だった。しかし、曽場ケ城山はあまりに急峻であったため(本丸にたどりつくこと自体が登山なのだ)、平時に使われることなく、しばらくして廃城となった。なお、大内と毛利の中国地方の覇権争いは1555年の陶晴賢vs.元就の厳島の合戦で決着する。
1月18日、広島県のほぼ中央部に位置する曽場ケ城山(607㍍)に登った。登山口からの標高差350㍍。数字上はさほどではないが、長い稜線とアップダウンを繰り返し、山頂に着いたのは2時間後だった。山城があったのは1500年代前半のことだから、今はもう何もない。主だったところに簡素な標識があるばかりである。
城郭跡はないが、三の丸、二の丸、本丸跡の標識を見ながら小高い丘を一つずつ登れば、戦国期の城攻めの気分に多少とも浸れるというもの。特に、本丸跡からの西条盆地の眺めは雄大である。500年前の武将もこの景色を見たかと思えば、感慨深い。
この本丸跡が山頂かと思ったらここは標高577㍍。いったん鞍部に降りて登り返した先に山頂はあった。「曽場ケ城一ツ城跡」の標識が立ち、出城があったことがうかがえた。ここから先は下山路。急な下りがしばらく続く。林間を1時間ほど我慢すると、西国街道(旧山陽道)の大山峠に出る。かつては西へ行くにも東へ行くにも、この峠を越えたらしい。ここからはほぼ平らな道で、しばらくすると舗装道に出た。
戦国期に思いをはせ、趣ある山行だった。
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