北アルプス幻視行~穂高巡礼 [北アルプス幻視行]
北アルプス幻視行~穂高巡礼 |
井上靖の初期の作品に「比良のシャクナゲ」というのがある。昭和25年の作というから、もう50年以上も前のものだ。読んだのは30年以上も前だったか。日常的な生活にわずらわしさを覚え、学問にのみ情熱を燃やす老学者の孤独な心情をつづった小品だ。
80歳を前に過去を振り返る学者の心に比良山系のたたずまいが鮮烈にかぶさって、いい味を出している。「闘牛」で芥川賞をとった直後、4作目にあたる。なぜかこの作品、山に登る話として頭に残っていた。最近読み直してみて、それが違うことに気がついた。
「神々しいまでに美しいはろばろとした稜線」に見とれ、「あの山巓の香り高い石南花の群落の傍で眠ることができたら」と願いながら「一度登ってみるべきだったな」と述懐し「今となってはもう駄目だ。あの高山の頂に登ることは所詮不可能というものじゃ」と老いの現実を見つめる。
なぜ勘違いしたのだろう。新潮文庫の短編集では「猟銃」「闘牛」とともにこの作品が収められている。「猟銃」もまた中年男性の孤独がテーマで、猟銃を背にした男性が山に入る場面が象徴的に描かれている。どうもこのシーンが、時を経て老学者の山行にと記憶の化学変化を起こしたらしい。
涸沢秋天(2008年9月) |
では記憶の変化をもたらした触媒は何だったか。それは井上靖の初期作品群に漂う「山の香気」であったように思われてならない。山の描写に漂う香気が、二つの作品を融合させてしまったのだ。その筆致とは、例えば「比良の―」ではこんな感じだ。
「行手には叡山が見え、そのはるか向うに、全山真白くおおわれた連峰が、目の前にさめるような美しさでそそり立っていた。疎林に覆われた嵯峨の山々のなだらかな曲線を見てきたわしの目には、それは殆ど同じ山とは思われぬ厳しい峻厳な美しさで映った」
比良山系に対するこの見事な描写をそのままあてはめていい山域が、それぞれの心の中にあるのではないか。北岳の哲学的な横顔もいい。槍が岳の、他に染まらぬ強烈な個性も悪くない。剣岳の峻烈もいい。だが私にとってのそれは、おそらく穂高の秀峰になるのではないか。
最初に穂高に登ったのは、もう30年近くも前のことになる。30代の前半だった。上高地から見た山頂にいつかは登ってみたいと思ったのだ。「比良のシャクナゲ」の三池俊太郎のように。このときは1年かけて準備した。それまでほとんど山など登ったことなどないのに、無謀なことだった。横尾から回り込み、山道をつめてその先、涸沢と黒々とした穂高の壁が視界に入ってきたときの感動を忘れたことはない。
ガスが流れるジャンダルム(2008年9月) |
2回目の穂高は2002年の夏だった。燕岳から表銀座を歩いて東鎌尾根を登り、槍が岳を経てキレットを渡り、北穂から奥穂へと向かった。天候にも恵まれた。西岳付近の縦走路からの穂高は、真夏の交響曲でも聞いているかのように重厚だった。北穂から見た、槍の肩を越えていく雲。吊尾根の先にある、前穂の厳しい稜線が描き出すスカイライン。それぞれの山々が、今でも鮮やかに脳裏によみがえってくる。
その翌年には、奥穂から西穂へのルートを歩いて「穂高巡礼」を完成させる試みを企てた。だが悪天のため、断念せざるを得なかった。今でも「見果てぬ夢」である。
2008年には10人余りのグループで穂高を訪れた。北アルプスはほとんど単独行だったが、これもまた一つの楽しみ、と知った山行であった。
穂高は「秀でて高い山」すなわち「秀高」が転じたともいわれる。その名のごとき穂高がある限り、巡礼は終わることはないのだろう。
2009-09-15 14:06
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by kei (2009-09-16 03:41)