山の図書館~地上に降りた物語の天使~笹本稜平「未踏峰」 [山の図書館・映画館]
地上に降りた物語の天使~笹本稜平「未踏峰」 |
前2作とは違って「未踏峰」は架空の山を舞台にした。国家間の空中戦ともいうべきプロットで組み立てた「天空-」、会社経営者をヒマラヤ8,000㍍峰の頂上に立たせる、という「還るべき―」と比べると、今回ヒマラヤのサミットに挑む3人は社会のマイノリティーの色彩が強い。宇宙の高みから社会の上層、そして今回は障害を抱える若者たち。それが何によるものかは分からないが、著者の視線の位置は確実に降りてきている。
システムエンジニアからドロップアウトした橘裕也。知的障害を抱える勝田慎二。そして戸村サヤカはアスペルガー症候群に悩み続けた。小説の冒頭この3人が、息をのむヒマラヤの景観を目前にする。笹本の山岳描写はここでも健在だ。
笹本稜平「未踏峰」の表紙(祥伝社刊、1700円、初版第1刷は2009年11月5日) |
「急峻な西稜となだらかな南東稜の二つのスカイラインが中空の一点で交差する。その秀麗な山容は、天にはためくタルチョ(祈祷旗)のようだった。
急角度で稜線に駆け上る南壁は、神の匠の技とも思えるヒマラヤ襞に覆われて、削ぎ落とされたような氷壁の中間部には銀の胸飾りのような懸垂氷河」
なぜ、この3人がヒマラヤを目指すことになったのか。パウロさんと呼ばれる、ある山小屋の主人。いつもはにかむような表情で客を迎え入れる。目立たないが登山者にとってどこかホッとさせる存在。彼は世界の一線級のクライマーと呼ばれてもいい力量の持ち主だった。それが、ある体験を経て登山界を退き、山小屋にこもる。そして彼の見えない力とでもいっていいようなものが、3人を引き寄せる。
3人が出会った後、パウロさんは山小屋の火事で焼死してしまう。残された一通の遺書。「告白しよう。私は人を殺した―」。その言葉は「鋭利な鏃のように」裕也の心を貫く。懺悔のように、詳細な物語がつづられる。ダウラギリⅠ峰遠征。アルパインスタイルによる無酸素登頂が試みられる。パウロさんは有酸素と無酸素の同時登頂を提案する。そして自ら「無酸素」を選択する。先行する2人を追うパウロさん。「ふと横手の斜面に目をやると、ガスの切れ間に赤いものが見えた。(略)それは間違いなく人間だった」
そのとき、パウロさんは信じがたい行動を取る。「その隊員が着けていた酸素マスクを外した。隊員はかすかに顔を歪めたが、意識を取り戻す気配はなかった」
頂上を踏んだパウロさんは引き返すが、すでに隊員の体は氷のように冷えていた―。以来、慙愧の思いがパウロさんの心を蝕んでいく。
パウロさんの小屋で出会った3人は、かつての名クライマーの教えを受けて冬の南八ヶ岳、富士山を歩き、めきめき上達する。パウロさんの思わぬ死を目の前にして、その遺志を継ぐこと―残った3人でヒマラヤの未踏峰を登ること―が、自分たちの宿命であることを胸に刻む。
架空の未踏峰「ビンティ・チュリ」(祈りの峰)の頂上が見える標高5,000㍍のコルに着いたのは早朝だった。
「『あ、太陽が覗いた』
サヤカが唐突に声を上げる。彼女が指差す彼方の雲海上に融解した銑鉄の雫のような真紅の光点が現れて、矢羽根のような光芒を幾筋も伸ばしながら急速に明るさを増してゆく」
そんな光景を見ながら裕也はつぶやく。「まだ終わっちゃいない。おれたちをあの頂に立たせることがパウロさんの夢だった。おれたちにとっては、それに挑戦することが、人生を生き直すための希望の源だった」
そして3人は、これ以上高いところがない場所に到達する。
「私たち、でっかい希望をもらっちゃったね。パウロさんから」
「ああ。だからおれたちも、パウロさんの希望を引き継ごう。ビンティ・ヒュッテを再建しよう。おれたち三人で―」
頂上までの途中、苦しい中でサヤカがつぶやく。
「生きてるって不思議だね―」「本当の自分が生き生きと手足を伸ばしているの」
地上に住む普通の人間たちにとって、名もなき峰の頂が「希望の峰」になった瞬間を、笹本は鮮やかに描いている。
2010-01-14 12:54
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コメント(4)
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まだ今回の記事は読まないことにしています。
というのは、丁度図書館に予約を入れたところだから(^^)
既にいくつも予約が入っていて、待ち状態になりました。
by ken_trekking (2010-01-16 09:50)
ken_trekkingさん、niceありがとうございます。
よけいなことをしちゃったかもしれませんね。
by asa (2010-01-16 10:17)
いやいや、そういう意味で書いたのではないので大丈夫ですよ~
by ken_trekking (2010-01-16 18:53)
ありがとうございます
了解です
by asa (2010-01-17 07:09)