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人生の滋味あふれる6編~山の図書館 [山の図書館・映画館]

人生の滋味あふれる6編~山の図書館



「春を背負って」笹本稜平著

 針の木峠に小屋を建てたのは百瀬慎太郎である。昭和2年の暮れ、これも百瀬が建てた大沢小屋を拠点に早大山岳部員がスキー合宿をしていて雪崩に襲われ、4人が亡くなった。遺体は翌年6月に見つかった。この遭難をきっかけに百瀬は針の木小屋の建設を思い立ち、昭和5年に小屋が開かれた。

 百瀬は大町の旅館「対山館」の息子として明治25年に生まれた。ウォルター・ウエストンが翌年、この「対山館」を訪れたという。歌人でもあった百瀬は後年「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」のフレーズを知人が広めたことで注目された。なかなかに味わいある人柄だったと伝えられるが、評伝は少ない。


 

 笹本稜平は、いくつかの山岳小説をこれまでに書いている。たどってみると、面白いことに気づく。最初に手掛けたのは「天空の回廊」。舞台はエベレストである。2作目は「還るべき場所」。K2で恋人を失い、再びその峰に「還ってきた」男の物語だ。3作目ではヒマラヤのカンティ・ヒマール山域を舞台に、7000㍍弱の架空の美峰「ビンティ・チュリ」を若者3人が目指す。分かるだろうか。標高が徐々に下がっている。その分、人間の物語が色濃くなっている。

 ――その小屋は、甲武信ヶ岳と国師ヶ岳を結ぶ稜線のほぼ中間から長野側に少し下った沢の源頭にあった。

 電子機器メーカーに勤める長嶺亨は、交通事故であっけなく死んだ父の、奥秩父にある山小屋を継ぐ。ふだんはホームレス生活を送り、ときおり小屋に顔を見せるゴロさんは父・勇夫と大学ワンゲルの先輩・後輩の間柄である。結局彼も、シーズン中は小屋に住みつく。父が撮ったシャクナゲの群生の写真を追ってこの山塊を訪れた若い美由紀もまた、小屋の生活に生きがいを見いだし始める。3人をめぐる人間模様を中心にストーリーが紡がれていく。

 
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 6編それぞれが水彩画のように淡いが、それぞれにしっかりと物語がある。沢で偶然見つけた白骨死体とそばに落ちていた高級時計が夫婦の哀歓を浮き彫りにする「野晒し」。事故に遭い生死の淵をさまよう夫に電源の切れた携帯で山から呼び掛ける「疑似好天」。「空を飛んできた」少女が垣間見せる大人の社会の愛憎―「荷揚げ日和」。しいて好みを言えば、前半まで怪談仕立てを思わせる「野晒し」がいい。

 ――前穂高へとせり上がる北尾根、怪異なジャンダルムの岩峰とそこから西穂高に至る鋸歯のような稜線、残雪の斑を残して優美な笠ヶ岳、その名の通り鋭利な三角錐を天に突き刺す槍ヶ岳。(「還るべき場所」)

 こうした鋭角的な描写も悪くはないが、「春を背負って」では注意深く山の情景は避けられている。むしろ、山はそれぞれの心の中に息づいているのである。と、ここまで書けば、冒頭で百瀬慎太郎のフレーズを出した意味を分かってもらえるだろう。

 難点は、女性の側が思いを寄せる、といった展開が多いことかもしれない。やっぱり男が書いた小説だね、と言われるかも。次作はぜひ、都会に住む人間たちがおりなす山岳小説を書いてほしいものです。

 「春を背負って」は文藝春秋社刊。1500円(税別)。初版第1刷は2011年5月30日。笹本稜平は1951年、千葉県生まれ。2001年「時の渚」でサントリーミステリー大賞。2004年「太平洋の薔薇」で大藪春彦賞。警察小説、冒険小説でも知られる。「還るべき場所」は6月に文庫本化された。

春を背負って

春を背負って

  • 作者: 笹本 稜平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2011/05
  • メディア: 単行本




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