中国山地幻視行~窓ヶ山・青い空と光る海 [中国山地幻視行]
中国山地幻視行~窓ヶ山・青い空と光る海
快晴の一日。こんな日を小春日和というのだろう。近くの山から広島湾を眺めたくなり、窓ヶ山(711㍍)に向かった。
11月25日、魚切の登山口。ここには毎年今頃、皇帝ダリアが咲く。作業場らしき建物の敷地内、見上げるような位置に薄紫の花。原産は中米当たりのはずで、もちろん自生ではないだろう。横目に眺めてコンクリートの舗装道を登り、鬱蒼とした林に入った。
この山は、最初は緩くだんだんと急登になる。山頂に近くなると、ほとんど岩場になる。そこまで行くと、なぜこの山にしたのかといつも後悔する。そんな気持ちを押し殺し、あえぎながら山頂につくと、広島湾の展望が眼下に広がる。青い空、光る海。先ほどの後悔はどこかに吹き飛んでいる。現金なものである。
厳島の紅葉、今がピーク~四季・彩時記 [四季・彩時記]
厳島の紅葉、今がピーク~四季・彩時記
快晴の11月18日、ピークを迎えた厳島の紅葉を楽しみました。約70年ぶりとなる2019年以来の改修工事をほぼ終えた大鳥居も、洋上の足場を除いて囲いが取り払われ、姿を見せていました。足場は27日まで見学用に使われるそうです。
さすらう冒険行の始まり~山の図書館 [山の図書館・映画館]
さすらう冒険行の始まり~山の図書館
冒険とは何か。角幡はいつも、こう問いかける。高い山に登ることが冒険なのか。未踏の地に踏みこむことが冒険なのか。確かにこれらは必要な条件かもしれないが十分な条件ではない。例えば角幡は対談・エッセイ集「旅人の表現術」で、こんなことを述べている。
偉大な先達・本多勝一の定義を下敷きにしつつ「冒険とは体制(システム)としての常識や支配的な枠組を外側から揺さぶる行為でなければならない。(略)反逆的な方法で新しい世界に飛び出して可能性の扉を開き、時代の体制(システム)をぶち壊さなくてはならないのだ」―。
その前段として、エベレスト登山が多くの人の目に冒険とは映らなくなった理由を挙げている。「登山の戦略が完全にマニュアル化し、そのマニュアル通りに事を進めることが登頂につながる最大の近道になってしまったのだ」
私たちは高山に登るとき、事前にさんざん地図を眺め、地形を頭に叩き込み、標準的な所要時間を調べ、無理のない日程を組み立てる。それが、安全登山のために推奨される。我々のレベルでは、それは正しいことだろう。
しかし、冒険家を名乗るには、それは正しいことなのか。ここに角幡の問題意識がある。点から点への移動を目標とし、できるだけ効率的にこなす。得られるものは何か。サミットハンターとしての満足感か。困難なゴルジュを突破したことの、沢ヤとしての満足感か。もちろん私を含め、こうした行為を否定するものではないが、角幡はその先へ行こうとする。そうした思想の「いま」を全面展開したのが、この一冊である。
表題に「裸の大地」とある。前述したような、我々が事前に入手しうる知識をできるだけオフにする。北海道・日高で行った旅では、食糧はおろか地図さえも持たず山に入った。目の前の山々の向こうに何があるか、行ってみなければわからない。事前に知識を仕入れていれば、山や滝を越えれば何があり、テントを張れるポイントまでどのくらいの時間がかかるかもある程度計算できる。つまり、先が見える。しかし、地図もなく地形の予備知識もなければ、ただ山があるばかりである。それは圧倒的な存在感を持って迫り、人間は卑小な存在になる。「裸の大地」の意味するところであろう。
食糧も持たないので、自然界から獲得しなければ先に進めない。どれだけ前に進めるかは、事前の計画によってではなく獲物次第となる。表題の後半「狩りと漂泊」の意味するところである。
角幡は2016年12月から翌年2月にかけ、北極圏を旅した。全行程ヤミの中という、おそらく角幡以外誰も思いつかないであろう冒険の旅である。見えない極寒の氷原を行く恐怖は、我々には想像がつかない。そのグリーンランドを、2018年3月から5月にかけ、一頭の犬とともに歩いた。今度は白夜の旅である。最小限の食糧を持ち、途中でジャコウウシやアザラシ、ウサギを手に入れ、可能な限り北へ向かう。行程は、獲物を手に入れることを前提に組まれる。「点と線の冒険行」ではなく「さすらう冒険行」が始まる。
白夜の氷原で角幡はこう考えた。夜昼の区別のない世界。疲れれば起きる時間を遅らそう。出発もずらす。翌日に疲れを残さないため、歩行時間は過剰にならないようにする。すると、どんどん行程は後ろの時間へとずれていく。その中で1日24時間という時間枠は守る必要があるのか。時間とは何か―。「近代」を突き抜ける思考。それは「冒険」という概念を形成する「近代」への問いかけでもある。
ノンフィクションは、沢木耕太郎らによってニュージャーナリズムの世界へと足を踏み入れた。人物の航跡をトレースするだけでなく、その航海でどんな魂の揺らぎを見せたかを、文字にする。沢木らの功績はその点にあった。間違いなく困難な仕事であるが、その困難さの多くは、記録者と行為者が別主体であることに由来する。角幡はその一人二役を特権的にやって見せる。冒険家が文章を書くのではなく、冒険家であり文学者(もしくは思想家)である。恐るべき力業だ。
新潮社刊、1800円(税別)。
中国山地幻視行~高岳・黄金の緞帳 [中国山地幻視行]
中国山地幻視行~高岳・黄金の緞帳
11月7日、目当ての山の登山口付近に車を置くと後続車の女性が声をかけてきた。「すごい天気ですね」。「紅葉もちょうど頃合いのようですね」と返した。
広葉樹の中を緩く登る登山道は、陽を浴びて黄金の緞帳のようだった。ついついカメラを向けるのに忙しく、「歩き」がおろそかになった。しかし、1時間もあれば頂につく山である。ほどなく360度展望の広場に出た。
登山口の女性は直後に来た車に同乗、引き返していった。聖山からここ高岳まで縦走をかけたらしい。そのための分散駐車のようだった。若いころはこの山の往復では物足りず、縦走路を行ったものだったが、今では山頂までのピストンがちょうどよくなった。往復に紅葉見物の時間を割く余裕もあるというものだ。