死と隣り合わせの狂気~山の図書館 [山の図書館・映画館]
死と隣り合わせの狂気~山の図書館
「外道クライマー」(宮城公博著)
単行本が出た時、気になっていたがつい読まずにいた。文庫本になったというので読んでみた。予想に違わず面白い。何が面白いか。表現の巧みさ、自由奔放さもだが、冒険者自ら表現するという「二刀流」にその源流がある。巻末で角幡唯介が解説を書いているが、まさしく角幡の才能を引き継ぐ鮮やかな、そして恐るべき「二刀流」ぶりである。
タイトルにある「外道」から入ろう。なぜ著者は、この言葉を使ったか。冒頭にある自身の紹介で「無職の沢ヤ・クライマー」とある。この本自体「クライマー」より「沢ヤ」の部分に軸足を置いて書かれている。沢ヤとは垂直の壁より渓谷、河川の、主に滝を攻めることを生きがいとする人たち(だと思う)。活動場所は、ともすれば山深い清流の地、と思いがちだが、必ずしもそうではない。ドブ川を歩き、滝を越え、またドブ川を歩く、というのも含まれる。
現代のクライミングが、ヒマラヤや北アルプスの山岳地帯で標高差とコースの難易度を競う、という無機的な指標に頼りがちだが、著者はそんなものに目もくれない。そして、「許された」地での冒険だけが冒険ではないという哲学がある。著者は那智の滝を登り、「ご神体」をけがしたとして逮捕されるが、冒頭のこのエピソードこそ「外道」の意味を伝えている。「解説」で角幡が書いているように、「冒険とは本質的に社会の外側に出ていこうとする行為」だとすれば、那智の滝が冒険に値する対象である限り、社会的権威より挑戦が優先するのである。ここに「外道」の本意があるといっていい。
全体を見渡すと、タイのジャングルでの46日間にわたる沢登り(というか、彷徨といったほうがいいかも)を3分割し、間に台湾の怪物的なゴルジュとの格闘、北ア・称名滝の上部廊下(ゴルジュ)遡行と冬季側壁登攀を挟み、変化を持たせた。
タイでは沼地を延々と歩き、藪漕ぎやアブ、蛇に悩まされ、猛獣の足跡におびえ、栄養失調になりかかり、急流にのまれそうになり、次々に「やばい」場面が登場する。カッコよくはないが、常に命の危険があることがよく分かる。
九州ほどの面積の台湾には3000㍍峰200座があるという。その分、日本とはスケールの違うゴルジュも存在する。1000~1500㍍の絶壁に挟まれ、連瀑が次々と登場する。
称名滝上部には高さ200㍍の壁に挟まれた廊下が約2㌔続くという。一度入れば突破するか、200㍍のもろい絶壁をよじ登るかしかない。それが、今日まで未踏の地にしていた理由である。この廊下を3回に分けて踏破したクライマーがいたため著者は、一度での突破を試みるが敗退する。
そして、冬季の称名滝側壁。なぜ未登攀のまま残ったか。標高が低いため雪が固まらず、グサグサのまま岩にこびりついているからだ。アイスハーケンでは固定できないため、雪をはいで壁にハーケンを打ち込む必要がある。膨大な雪が水流のように落ち込む中で、その作業を行わねばならない。
肉体一枚を隔てて「死の世界」が待ち受けている。だからこそ沢ヤは、引き込まれていく。その心理を、著者はこう書く。
――理屈では説明できないオーラがあった。そして私には、自然の猛威を剥き出しにした本当の称名滝の内院に入り込みたいという欲望があった。それは登山者が持つ一種、狂気的な感情なのだろう。(略)生と死の境界線に立つことによって生の実感が湧く。(略)そこに、自分だけの何かを残したいのだ。登山とは、狂気を孕んだ表現行為なのだ。(第6章 二つの日本一への挑戦)
分かる気はするが、真似はできない。だから、読むだけにしておこう。
集英社文庫、850円(税別)。
「冒険とは本質的に社会の外側に出ていこうとする行為」なるほどそうかも。一般大衆の支持・常識という範囲から抜けられないのは真の冒険者でないかもしれませんね。
by Jetstream (2019-03-31 23:36)
≫Jetstream さん
角幡唯介の持論ですが、私もそう思います。高い山を無酸素で登ることが「冒険」であることが難しくなってきた今、極夜の北極を横断することが冒険である時代。でも、そこでは社会常識との格闘も生まれてきます。「外道クライマー」も、その辺りを追った一冊のように思います
by asa (2019-04-01 15:30)