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中国山地幻視行~冬の旅で「冬の旅」を聴く [中国山地幻視行]


中国山地幻視行~冬の旅で「冬の旅」を聴く

 

 中国山地に抱かれるように、その街はある。人口は年々減り、今は5万人余りと聞く。晴れた日、その街へ車を走らせた。クラシックのコンサートを聴くためだった。もちろん、柄にもないことは重々承知していた。きっかけは一通の案内状だった。差出人は高校の同窓生であった。

 彼には、以前にも手紙をもらった。永年勤めた高校教員をやめ、好きなバリトンの道で生きていこうと思う、ついてはコンサートをやるので見に来てほしい、とあった。新聞記者をしていた私は時間の都合がつかず、聴くことがかなわなかった。そのかわり、これは記事になると直感して関係の部署の記者にあらましを告げた。中国山地の高校に勤める国語教師が50代になってクラシックのバリトン歌手に転身した話は、地方版ではあるが結構大きく扱われた。

 会場である市の公共施設の駐車場に車を入れると、続々と人が集まっていた。予想外のことに驚いたが、それは勘違いであることにすぐ気づかされた。同じ時間、ある日本映画の上映会が計画されていた。長い列の横をすり抜けて目的のコンサート会場を尋ねると、100人ほどの小ホールだった。

 約2時間の二部構成で、彼=仮にYさんとしておこう=は2部の方だった。シューベルトの「冬の旅」を24曲歌った。伴奏はピアノ1台、マイクなし。初めて聴くYさんの歌はドイツ語なのでそのまま理解することはできなかったが、Yさんの日本語訳が会場で配られ、バリトンの響きの中でおおよその内容は把握できた。

 作曲者シューベルトと詩人ミュラーはほぼ同時代の人で、18世紀末から19世紀初頭を生きた。ナポレオンが冬のロシアで敗れ、ヨーロッパに王政復古のあらしが吹き荒れたころである。こうした時代を反映してか「冬の旅」の歌詞には、何者かに拒否された悲しみと、それに立ち向かう確固とした意思のようなものが漂う。「よそ者としてやってきてよそ者として再び出ていく」旅人の物語。「貧しい逃亡者」であり「死に絶えてしまった」ような「私の心」。そんな中で旅人は一羽のカラスに気をとめる。ミュラーがうたった「カラス」とはなんだろう。そして、最後の曲。辻音楽師が、誰も聞こうとはしないライアー(手回しオルガンと思われる)をひたすら回す。その姿に旅人は共感している。そのとき、ライアーはどんな音を、どんな曲を奏でていたのだろうか。

 出口で待っていたYさんに声をかけたが、感想はうまく伝えられなかった。もとより門外漢である。気の利いた感想を思いつかなかったのである。ただ「とてもよかった」とだけ伝えた。それは本心であった。それに、50代でバリトン一つで生きていくと決めた人生は、私には想像のつかないものだった。そのことも、感想をうまく伝えられなかった背景にあったかもしれない。

 帰途、立ち寄った自動車道のSAから、沈む夕日が見えた。聴いたばかりの「冬の旅」の光景の一つのように思えた。

 

 


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