自然で身の丈にあった文章が引き付ける~山の図書館 [山の図書館・映画館]
自然で身の丈にあった文章が引き付ける~山の図書館
「山行記」(南木佳士著)
病院の勤務医である「わたし」に、沙絵ちゃんから手紙が届いた。浅間山に登りませんか、とあった。高校生のころの憧れの存在と登った。
マツムシソウだね。
ミヤママツムシソウかな。
ほのぼのとした会話を交わし、でも彼女は40年前とは違っていた―。
遠い記憶が交差する中で、こころとからだ、生と死の融合と乖離が背伸びしない自然な文体で語られる。「草すべり」はそんな小説だ。
この小説を書いた南木佳士さんが「山行記」を出した。50歳を過ぎて始めたという山登りのスタイルも、小説と同じく背伸びしない、自然な歩運びであるようだ。
大きく4章に分かれる。「ためらいの笠ヶ岳から槍ヶ岳」「何度でも浅間山」「つられて白峰三山」「山を下りてから」。「ためらいの笠ヶ岳から槍ヶ岳」と「つられて白峰三山」はそれぞれ北アと南アを代表するルートを歩いた記録。どちらかといえば著者には似合わない。自身もそう思っているようで「ためらいの」とか「つられて」とか余分な形容詞をかぶせたところに、心情が表れている。職場の仲間に誘われ、ついついその気になって行ってしまった、という心根が表れている。
笠へ登る日の朝、妻と泊まったホテル。
どうしてこんな事態になってしまったのだろう、と後悔の念に襲われる。背後から、起きだしてきた妻が「やっぱり行くの?」と問う。
分かるなあ、この気持ち。一方で、
晴れた日の午前の針葉樹林の香りが、それまでに服用したあまたの精神安定剤よりもはるかに深く心身をリラックスさせてくれる作用があるのを知ったのも、山にのめりこんだ大きな理由だった。
「精神安定剤をあまた服用した」経験はないが、これも分かる気がする。
かくして、笠新道をへろへろになりながらなんとか登りきり、翌日には死にそうな思いで西鎌尾根を攀じる。
「欲望に負けて」ついつい登った「白峰三山」も同じような調子だ。弱い自分、情けない自分をそのままさらけ出す。同行者の「泣き」を聞き「他者の吐く弱音は『わたし』をすこしだけ楽にさせてくれる」と感じる。山頭火の句になぞらえ「後悔するからだが歩いている」のである。
それでも山に登るのは、
これだよなあ、これだよなあ、と深い呼吸をくりかえしつつ「わたし」は晴れた白峰三山の一部になっていった。
という体験が待ち構えているからだ。
「何度でも浅間山」は、八ヶ岳と浅間山への山行を取り上げ、筆者の「日常の山」を書いている。「山を下りてから」は、「山」をめぐる自身のさまざまな話題を軽妙に取り上げた。山行スタイルと同じ、あくまで身の丈にあった自然な文章が引き付ける。
文春文庫、670円(税別)。
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