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冒険は表現行為である~山の図書館 [山の図書館・映画館]

冒険は表現行為である~山の図書館


「旅人の表現術」(角幡唯介著)


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 角幡は自らを「探検家」と称している。普通、探検家が書いた著作とは、探検という行為がまず完結し、そのおまけとして探検記が存在する。場合によっては、そこにゴーストライターが介在する。しかし、角幡の著作はそうしたものとは全然違う。うらやましいことに、角幡は探検家としての身体能力とノンフィクションライターとしての文章表現能力と思索力を併せ持つのだ。そのことを強く意識させられたのが「空白の五マイル」だった。さらに、「アグルーカの行方」では、自らの北極行と悲劇の結末を迎えたフランクリン隊の史実を重ね合わせるという、類まれなストーリーテラーの才も証明した。

 そうした角幡が、自らの著作の製造工程の一端を明らかにしたのが、この一冊である。開高健論、沢木耕太郎との対談、「氷壁」と「神々の山嶺」との比較論、そして「冒険」論…。

 開高健論では、本多勝一との比較が意識されている。本多と比較した場合、開高は冒険者、探検家としては一歩引き下がらざるを得ない。しかし、角幡はむしろ開高にひかれている。それは、死が充満するところへ向かう、それが生を活性化させるという開高の渇望感に共鳴するからだ。

 ――開高健が求めていたのはジャーナリスティックな戦場の現実ではなく、死の充満した冒険の舞台だった。

 開高は、そうした空間を荒地と呼んだ。生と死のひりひりした空間を描いた「輝ける闇」と、それに続く「夏の闇」から、彼は「日本三文オペラ」へと向かう。朝鮮特需に沸く中で繰り広げられた屑鉄漁りの模様を描いた小説である。
 ある講演で佐高信は「現代には闇がない」と話していた。現代は何もかも、形状がはっきりしており、定義がなされ、したがって恐怖を呼び起こすものがない。佐高はこれを「妖怪がいない社会」と表現したが、これは開高の「荒地」とはまったく異なる空間のことを言っている。そして開高は「オーパ!」で、これまで取り込んだ「死の空間=荒地」を小出しにして生き延びる。
 沢木との対談は、ノンフィクションの作法論というべきものだが、根底的なところですれ違っている。それはなぜか。角幡は探検、冒険行為自体を表現行為と認識しているのに対して、沢木はその部分を対象に委託しているためだ。例えば角幡は「事実をもとに自分が思いこんだものを描きたい」というが、ここに沢木は立ち入れない。そのうえで興味深いのは、沢木が取材者としての自分を無批判には提出できない、書き手にはもう一つの目が必要だ、としたのに応じて、角幡が「書くことを意識してふるまう。それは行為者としてどこか不純なんじゃないかとも思う」といっている点だ。これは、冒険と「書く」という行為を合わせて表現行為という角幡ならではの心境であろう。
 この、冒険=表現行為という視点は、「氷壁」と「神々の山嶺」との比較論にも貫かれる。
 「氷壁」の主人公・魚津恭太は山に情熱を傾ける男だが、社会との折り合いはつけている。しかし「神々の山嶺」の羽生丈二(森田勝がモデルといわれる)は、もともと社会との折り合いがついていない。社会生活の全てをなげうって山に挑む男である。そして、角幡は羽生への共感をにじませる。
 この視点が、角幡の冒険論の基盤になっている。本多は最も冒険的な冒険を体制権力に対する反逆に求めたが、角幡はこの「反体制」を「反システム」ととらえ、言葉の意味を広げた。そして、システムへの反抗こそが冒険であるという。
(集英社、1800円=税別)


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