わが身をも透過する強靭な「視力」~山の図書館 [山の図書館・映画館]
わが身をも透過する強靭な「視力」~山の図書館
「空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」(角幡唯介)
いわゆる冒険ノンフィクションで印象に残るシーンを一つだけ挙げろ、と言われれば躊躇なくギャチュンカン頂上直下の山野井泰史を描いた沢木耕太郎「凍」を挙げる。それはなにより透徹していて美しい。
――そのとき、山野井は、妙子のことも忘れ、高みから自分を見ている眼そのものになっていた。自分が、たったひとりで、頂を目指している姿がはっきりと見えた。
――早く頂上にたどり着きたい。しかし、この甘美な時間が味わえるのなら、まだたどり着かなくてもいい。
――全身の感覚が全開され、研ぎ澄まされ、外界のすべてのものが一挙に体内に入ってくる。雪煙となって風に飛ばされる雪の粉の一粒一粒がはっきりと見えるようだった。いいな、俺はいい状態に入っているな、と思った。
たしかにここで山野井は「高みから自分を見ている眼」、言いかえれば「神の目」に近いものを得ているかのようだ。しかしこの作品、山野井と沢木という得がたい二つの才能がぶつかり合ってようやくできたものであろう。
「空白の5マイル」はチベット、ヒマラヤの麓にある「世界最大」の峡谷に踏みいった男の記録である。西暦2000年を過ぎてなお、まともな地図さえない人跡未踏の谷があるなどとは驚きだが、その地に単独で向かったというのはもっと驚きである。旅はつごう3度、試みられている。過去、ツアンポー峡谷に向かった5人の探検家と、カヌーでこの凶暴な流れを下ろうとして命を落とした日本人のエピソードを織り込み、物語は巧みに展開される。
旅はもちろんのこと「死」と隣り合わせである。覗いた「死の淵」は、高山の美しい風景の中でのそれではない。ジャングルの中の腐った木の根に足をとられ、谷へと滑落する。不快な蒸し暑さの中で際限なくダニに襲われる。
――人跡未踏の空白の五マイルに下り立ったとしても、私がやっていることといえば、延々と続く急斜面で苦行のようなヤブこぎをしているだけだった。(略)楽しいことなど何ひとつないのだ。シャクナゲの発するさわやかなはずの緑の香りが、これ以上ないほど不愉快だった。
だが、こう書いた直後に著者は「おい、おい」と独り言を漏らす。廊下状の岸壁に、巨大な洞穴がぽっかりと穴をあけ「異次元空間のような非現実的な雰囲気を漂わせて」いるのだ。あれはチベット仏教の理想郷「ベユル・ペマコ」じゃないか―。しかし、洞窟は対岸にある。入るには峡谷を大回りしなければならない。もちろん、橋など架かっているわけもなく、流れは歩いて渡れるほどやわではないからだ。著者はその旅を実行する。岩棚をたどってコンサートホールほどもある洞窟に着く。そしてそれは「空白の5マイル」のほぼ全域を踏破したことを意味する。
だが1か所だけ、心にわだかまりを残す場所がある。「門」と呼ばれる、切り立った崖が並立する峡谷の最も狭い部分。あの上になにがあるか、見てみたい。その動機が、5年の新聞記者生活を経た著者を動かす。それが3度目の旅である。
1000㍍の岩壁を越え、20日間を歩きとおして着いた村は廃村だった。引き返すだけの体力も食糧もない。その先の村にはたしかに人が住む気配がある。だが…。そこへたどり着くためには、ツアンポー川を越えなければならない。死の恐怖がむくむくと起きあがる。
――濃い緑とよどんだ空気が支配する、あの不快極まりない峡谷のはたして何が、自分自身も含めた多くの探検家を惹きつけたのか。
――極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。
著者は死の恐怖に立ち向かったわが身を客体化して見ている。これは凡人にできることではない。美しい風景のためでなく、さわやかな風のためでなく、ひとはなぜ未踏の地を目指すか。自分自身を透過してその答えを見つけようとするこの作業は、ツアンポー峡谷の踏破にもまして驚嘆に値する。そしてその作業は「凍」のように二つの才能によってではなく、たった一つの才能でなされている。
「空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー川に挑む」は集英社刊。1680円(税込)。初版第1刷は2010年11月22日。著者の角幡唯介は1976年、北海道生まれ。早大探検部OB。2002~03年、ツアンポー川峡谷の未踏査部を単独で探検。03年朝日新聞社入社、08年退社。09年、3度目のツアンポー川踏査。2010年、この作品で第8回開高健ノンフィクション賞。
開高健ノンフィクション賞受賞、ということで興味があるのですがまだ読んでいません。今のご時世、お金さえ積めば行けないところは無いと言われてますが、まだこのような場所が残っているのですね。
by Umi-Bozu (2011-01-26 22:37)
≫Umi-Bozuさん
「冒険」とはなんだろう、なぜ人は「未踏の地」にあこがれるのだろう、といったことを考えさせてくれる一冊だと思います。
by asa (2011-01-27 06:48)